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混乱の中の会社運営(その1)

 以前も述べたが私の仕事は、建築の設計・コンサル/システムの

開発・運営・保守/映像製作/WEBコンテンツ等を事業を行ってきた。

 それに対し、私の父の仕事は紳士淑女の為のモーニングに使われ

るボタンや着物地を使用した髪留めやボタン、スーツに使用されるボ

タンをいとつずつ手作りするいわゆるクルミボタン(アルミなどの金物

に生地を包[くる]んで作るボタンの意味)である。

 父の亡日を機に父が亡くなることを運命が待っていた様に急激に父

の会社に仕事が入ってきた。なぜ?今まで、父の仕事は、徐々に仕

事量が減ってきて、業界内部も仕事の奪い合いになり淘汰され、今

残っているボタン会社も中国に仕事を奪われいずれは近いうちになく

なる産業であろうと思っていたので、信じられない光景であった。

 後で分かるのだが、このことには2つの理由がある事がわかった。

ひとつは、中国に移った製造ラインが、中国人の給与の高騰と度重な

るストライキの為に生産コストと生産量の安定性を欠く為商社が日本

に発注先を切り替えた為。ふたつに、車産業に代表される様なアルミ

を使用する産業が好調な為アルミの調達価格の高騰があり、このボ

タン業界にもボタンの金具という服資材もアルミであることが多く久々

の値上げに踏み切らねばならなくなった為、発注企業が値上がり前の

価格で作った物を在庫して、値上げ後にそれらを売り普段の利益プラ

ス値上げ前後の差益で儲けようとした駆け込み需要であった為でであ

る。

 これらを背景に、本当は私も母も父の死を契機に父の会社をたたもう

と思い口頭で、お得意さんに伝えていたのだが、どの会社さんも「どうか

やめないでくれないだろうか?」と言ってきた。このことばは父が今まで

やってきた仕事に対する評価の言葉に思えた。大学卒業後、やりたい

こともあっただろう父が、祖父の借金を抱えマイナスからはじめたこの商

売、それが、人様に必要とされている。そのこと知ると私は涙がとまらな

かった。

 涙には訳がある。私は中学や高校時代、父の仕事を大卒がするような

仕事ではないとどこかバカにしていたところがあった。そんな気持ちを抱

いていた私に、バブルがはじけた頃、父は私に言葉には出さなかったが

継いでもらいたそうに思っていたようだった。言葉の上では「この商売は

継ぐほどの土壌を持ち合わせていない」(需要が減る為継いでも縮小し

ていくだけで、拡大していく未来志向の産業ではないと言いたかったの

だろう)といい「お前は、お前が思う生き方を見つけろ」といいながら、父

の出身大学である関西大学経済学部の受験を私にすすめていた。私は

完全な理系派だった。小学生の時からプログラミングをはじめ、中学の

時にはカナダに1ヶ月滞在した経験から、あまりの日本とカナダの町並

み、飛行機で空から見る都市の景観の違いに建築に興味を持ち、大学

は電子工学か建築学科と決めていた私には複雑な気持ちの中大学を

受験した記憶がある。

 経済学部と電子工学科・建築学科と受験した私はなぜか現役の時に

第二志望である近畿大学理工学部機械工学科だけ受かりほかはみな

落ちてしまった。そのまま一時は機械工学科に入学したのだが、父は無

言で「お前は間違っている」と言っているようだった。

 私も、経済・電子・建築どれでもない機械を学ぶことに違和感を覚え、

3日で退学した。そこで、父に頭を下げ、浪人することを決意。父の希望

であると思われる経済学部を受けずに、建築学科を受けさせてほしいと

懇願した、賭けだった、父は条件を出してこれを受け入れてくれた。

 「条件を出す。浪人をさせるのはこれっきりや。それと落ちたら俺の大

学時代の同級生がやっている料亭で板前になってもらう。それでもやる

か?」と言った。私は「やります」と言って実は父を騙す様に実は大阪の

大学ではなく東京の大学を受けまくった。結果「明治大学理工学部建築

学科と日本大学理工学部建築学科と神奈川大学理工学部建築学科」

に合格したが、大手ゼネコンの部長をしていた叔父に相談して就職に有

利だいわれた日本大学に進学することにし東京に行くことになった。

 涙は父をバカにし、大阪ではなく東京。経済学部でなく建築学科、とい

う。父を否定した私の生き方を父は容認し、父の亡き後父の今までやっ

てきた事をなくすのは惜しいと姉が父の後を継ぐことになり、人を雇い入

れ、姉が会社を運営するのが軌道に乗るまでと期限を切り、父の仕事を

臨時ではあるが、父がやってきたことを自分自身で体感することになって

分かった父の偉大さを感じて流れた涙であった。

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再三にわたる大学病院のミスによる父の死

 大阪市立大学付属病院 泌尿器科

 それは私にとって忌むべき存在。

 私の父は三年前血尿が出てこの病院の診察を受ける事になった。

 そのとき父は腎臓結石という診断を受けた。

 それから一年してまた血尿がでた。また同じ様にこの病院の診察を

 受けた。末期に近いガンだと診断された。早期の手術が必要と言わ

 れる。膀胱や尿膜管全てを取る必要性があるといわれる。

 納得いかず、セカンドオピニオンを受けることにする。(別の病院の意

 見を聞くこと)そこでの診断は膀胱温存で開腹した際の状況により全

 摘出もありうるとの診断だった。だが、加えて、血尿が一年前に出て

 いるのに膀胱鏡をしていないのは信じられないといわれた。

 さらに、身内に医師が数人いるので相談したら、セカンドオピオンをし

 た医師とほぼ同意見であった。

 父は膀胱鏡をしなかった大阪市立大学のT医師に悔しいながら、ほぼ

 同じ結果なら完全に取るべきだと判断、設備の一番整っている市大で

 の手術しかないだろうと決断した。しかし、このT医師実は大阪市立大

 学の生え抜きで、誤診をかわす為か別のZ医師に担当を替えたこのZ

 医師は市大出身者ではない。ようは誤診を恐れたのか尻拭いをさせる

 為の要員らしい。その後は、Z医師の診断を受け誰が執刀するんですか?

 と聞けばこのZ医師も責任を取りたくないのかぼかして明確に答えない

 さらに、医局の教授は白い巨塔バリに教授回診とかいうイベントで父の

 元にたまにやって来ては、手術したらすぐ元の生活にもどれるよと軽い

 感じで挨拶してくしまつ。他の病院の先生に聞けば執刀医を誰か告げ

 ないなんて信じられないことらしいし、泌尿器科で一番大きな手術をす

 るのに、そんな簡単にものをいう医者を信じられないと言われた。

 その後父は9時間にも及ぶ手術を受けた。だが、その後父と病院で仲

 良くなった人は前立腺の摘出手術を受けたのに、関係のない腸に穴を

 開けられ人工肛門をつけないといけないようになって、病院と揉めて訴

 える寸前の状況になったり。父本人も院内感染に見舞われる(これで

 確実に寿命が縮んだ)ことになり。さらには菌がまだなくなっていない

 のに患部を縫い合わせたりとむちゃくちゃにされた。その後ガンが骨盤

 内に転移した。ガンとは取り除く際に散るらしく腕の悪い医者が執刀す

 ると散りやすく、すなわち転移しやすくなるらしい。命の危険を感じた父

 はこの病院での治療を行いたくないという。別の病院に移ったが、市大

 での放射線を当てた量が多かったらしく、転移したガンを手術するのは

 無理と言われた。仕方なく私は少ししかない望みの元、日本医科大学

 の丸山ワクチンを父に接種する事を勧め転院した病院で一日置きに注

 射してもらった。ガンと診断されてから、2年亡くなる最後の1週間だけ

 は苦しみ夜中に毎日私が泊り込んだのだが、力を振り絞り痛さに耐え

 起きてベッドに四つんばいになったり。動き回った。見ていて涙が止ま

 らなかった。モルヒネ(麻薬の一種)を打ち幻覚と理性の中「お前だけは

 許さん!」と怒鳴った。「お前ってT医師のことか?」と聞くと恐ろしい顔

 をしながら目の前に幻覚として対峙している人間を睨みつけるように頷

 いた。声の出なくなった父が声を振り絞り「そうや」と言った。

 それは、散々希望を持たすような事を言いながら裏切られ続けた病院

 に対する怒りであったのだろう。父をただのモルモットにしかみていない

 心の通わぬ医療に対する怒り。よその病院の先生は触診をした、触診

 は医師として基本だと思う。それをこの病院はしない。たまに患部の近く

 に手が行くとこの病院の医師は気違いのごとく石鹸をつけてしつこく手を

 洗う、院内感染を防ぐためというより、汚いものに触ったからきれいにしな

 ければという感じだ。

 だが、むなしいかなT医師は生え抜きであるために守られているのか失

 敗をしたにも関わらず、当時講師だったのに今は助教授に出世している。

 私は悔しくて仕方がない。だが、これを医療過誤と言ってはいけないのだ

 ろう。三年前に血尿が出たとき、他の病院に行っていればよかったのだろ

 う。ただ、これはヘボな病院にかかった親父の不運だったということなんだ

 ろう。手術をしてから、この病院のこの医局がヘボだということを聞いた。

 よそで診察を受けていれば、よそで手術していればと後悔の日々である。

 ミス・・・人の命にミスはありえない。

 だが、不幸中の幸いで転院した病院が良かった。先生も看護婦さんも血

 の通った心のある病院だった為最後は救われた。父が亡くなったとき転

 院先の先生や看護師さんたちは私と同じに泣いてくださった。父も最期に

 涙ながらに看護師さんや先生に「スンマセンなぁ。ありがとう」と声をかけ

 ていた。

 思わずそんな言葉を聞くと看護師さんや先生も大粒の涙をこぼしていた。

 私も普段私にそんなことをいったことのない父が「スマンなぁ」と大粒の涙

 を流しながら私に声をかけてきた。「なんもスマンことないよ」というと父は

 目を閉じて眠りに入った。私は心の中で「今までの恩に比べれば俺は何

 もしてないのと同じや」と思いながら大学まで行かしてもらい、ろくな恩返

 しもできていない自分を悔いた。それから数日後、父がトイレに行きたい

 といい、看護師さんと一緒に車椅子でトイレに連れて行くとトイレのなかで

 最後の用ををたし、立ち上がった瞬間父は帰らぬ人となった。

 

 


 

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戸籍法

 ここ最近更新できませんでした。

 といいますのも、父が先月亡くなった為でした。父が亡くなる直前まで仕事を


しながら夜中に介護をしていた為、体重が13キロも落ち体力的にブログ更新ま

で意識が移ることができませんでした。数少ない私のブログの閲覧をしていた

だいている読者の方にはご迷惑をお掛けいたしました。

 父の死に関しては病気のことや医療のこと、その他もろもろ、また別の日に

述べていこうと思いますがタイトルの内容に戻りますが、父が亡くなってからま

ずはじめにつまずいたのがこの戸籍法に関することです。

 ここ最近、皇室典範の改正議論で男系、女系、女性天皇など日本人のアイ

デンティティに関する議論が盛んですが、これをブログをごらんになっている皆

さんにもすぐに関係する内容ですので、最後までご覧いただきたいと思います。

 父が亡くなったことによってお墓を建立する為、自分のルーツを調べないとい

けなくなった私は、まず、役所に行って自身の戸籍謄本をあげ、そこから父→

祖父→曾祖父といった具合にご先祖様の記録を遡ることをしなければならなく

なりました。

 父→祖父までは順調に戸籍謄本をあげていくことができました。しかし、曾祖

父の戸籍をあげる際役所で「除籍されてから80年以上経っていますね、除籍謄

本は廃棄されています。」と言われ「へっ?!」となりました。

 ここで私は、戸籍法第百二十八条第一項ただし書き法務省令第二

九号第七条
の壁にぶち当たることになったのです。

 これは何かといいますと、除籍(戸籍より家族全員が婚姻による新戸籍の作成

や死亡などによる戸籍からの削除で、誰もいなくなった戸籍)された翌年から80

年でその戸籍は廃棄処分をしてもいいよという法律なんです。

 それにより私は戸籍からはそれ以上自分の家系について調べることが出来な

くなりました。この法律は平成16年4月1日より施行されているので、私は2年

前に調べていなければ戸籍を調べることが出来なかったことになります。それと

戸籍を調べるまでもない私の知る範囲つまり祖父までしか私という日本人として

のアイデンティティを公証できない事実を知りました。きょうび80年以上平均で生

きる時代もっと言えば100歳以上生きる人がいるのに生きているうちに戸籍が

廃棄処分されている現実なにかおかしくないだろうか?こんな全国民に関連す

る重要な法案がマスコミが騒ぐこともなく可決されているのはなぜ?

 皆さんも急いでご自分の戸籍調査をされることをお勧めします。この法を作成し

た議員や役人の名前が分かれば教えてください。糾弾せねばならないでしょう。

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